十五

神山智洋さん、入所15周年おめでとう。

15年もアイドルを続けてくれてありがとう。

 

神山くんのすきなところ。自分の夢ややりたいこと、目標をわたしたちにも教えてくれるところ。

昔からずっと変わらない。わたしはそれがほんとうに嬉しくて、そしてそれを叶えていく神山くんが誇らしくて仕方がなかった。

 

神山くんのすきなところ。悔しい、という感情を隠さないところ。

神山くんの大きな「悔しい」という感情を目にしたのは2度ほどある。ひとつは映画の選抜漏れ。もうひとつは中山優馬さんのデビューだ。

お仕事で東京へ呼ばれるときに上がる名前には常連で、日頃のコンサートでは人より多いパート、神山くんは最前線を張っているほうだった。そんな最中の映画選抜漏れ。強張った顔にぎゅっと強く握りしめた拳が今でも目に焼き付いて離れない。

中山優馬さんのデビュー。グループから引き抜かれる形でのデビューだった。

優馬デビューおめでとう」の垂れ幕が落ちて、会場が歓声に包まれる。会場中がお祝いムードの中、神山くんは泣いていた。端っこの方で泣いてるの知られないように、後ろを向いて目をごしごししてたのが見えた。

 

神山くんのすきなところ。悔しさをバネにするところ。

実は中山優馬さんと7人でデビュー出来るかも、なんて話が出ていた。実際はNYCが決まってなくなっちゃったけど。一緒にデビューを夢見た、叶えられたかもしれない仲間の引き抜きデビュー。きっと悔しくて寂しくてどうしようもなかっただろう。しかし神山くんはこの一件で「この世界で生きてくって決めた」と言う。

 

 

神山くんは強い人だ。真面目で、熱血で、努力家で、愚直に真っ直ぐ生きてきた。鬼軍曹と揶揄されて、気づかれないように、いらぬ気を遣ってしまっていた10代の彼を思うと胸む。

先輩だからと気を張っていたあの日。同じ熱で出来ないのがもどかしくて喧嘩したあの日。やりたい方向性が合わなくて結局別々のやり方で魅せたあの日。もしかすると辞めたくなった日、逃げ出したくなった日だってあるかもしれない。

それでも神山くんはいつだって自分の信念を曲げずに、やっぱりまぶしいくらい真っ直ぐだった。

 

神山くんの好きなところはたくさんある。毎年毎年好きなところは増えていくし、毎年毎年「ああやっぱりこの人がすきだなあ」と思わせられる。たぶん、16年目もわたしは神山くんがすきだとおもう。

永遠はないと思ってるけれど、神山くんの言う「絶対」は信じられる気がするなあ。これは一種の宗教かもしれない。

15年。15年同じことをがんばる中で違うことにも手を伸ばす、そんな欲張りな彼がだいすきだ。新しいことにどんどん挑戦して、戦うフィールドを広げてぐんぐん大きくなる彼から目を離す隙なんてない。

 

どうか16年目も自分に真っ直ぐ、なんてそれが1番難しいのかもしれないけれど、貪欲に、神山くんのやりたいように生きてください。

そしたらあとはわたしが勝手にいいように解釈して、勝手に新しくすきだ!とおもうところを見つけて、勝手にまたすきを増やすとおもいます。

 

たくさんのひとから愛を受け取る16年目になりますように!

 

 ps.どうか16年目もおへその横にあるホクロは生存させてください

 

愛していたのよ、残酷なおまえを。

 

 なんだか毎日はてブロを書いている気がする。どうにかして舞台オセローの話をし続けたいしずっとオセローの話をして生きていけないかなあ

まあ無理な話ですね。たぶんこれがオセローについては最後のはてブロです。たぶん。

 

 

だいすきなエミーリアの話をしたい。

この舞台オセローで1番すきな登場人物になった。まさかこんなにエミーリアのことをすきになるなんて。エミーリアについてのはてブをひらいてしまったよ!

 如何せんこれまでエミーリアは、清く正しく美しいデズデモーナの引き立て役としてモラルの低い低俗な女として描かれてきた。本を読んでもなんだか少し嫌味な女に見える。しかし、舞台の上に立っていたのは真っ直ぐで芯の強いエミーリア。強さと優しさを持ち合わせた女性。

 

「全世界とひきかえなら、ほかの男と寝るか」という問いに、絶対の貞淑を誓うデズデモーナを前にしてエミーリアはこう言ってのける。

「亭主を皇帝にできるなら、誰だって浮気の一つや二つやりますよ。私だったら、煉獄の苦しみにあってもやりますね。」

 

「妻がいるのにほかの女に手を出すって何です?遊び?そうなんでしょう。つい火がついて?そうでしょう。過ちを犯すのは心の弱さ?それもそう。で、女には火がつかないとでも?」

彼女はデズデモーナほど純真無垢ではない。女性性の不条理さを嘆き、腹を立てている。

しかし、 「煉獄の苦しみにあっても」夫のためなら何でもできると。愛する人のために自分を犠牲にできる女性である。

 

実際エミーリアは、拾ったハンカチを用途も知らぬまま夫にあげてしまう。夫が欲しいと言ったから。デズデモーナがあのハンカチをいつだって肌身離さず持ち歩き、キスをしたり話しかけたりするほど大事にしているものだと知っていたのに。「俺がやったハンカチはどこだ」とオセローに詰め寄られてるのを目の前にしても黙っていた。

全ては夫のために。

 

そんな彼女が、夫の悪事は許せなかった。

「ひと働きして全世界を自分のものにしたら、自分の世界の中での罪となるんだから、さっさといいことにしてしまえばいいんです。」

と飄々と言うが、きっと彼女は全世界が自分のものであろうと夫のことを許さなかっただろう。許してしまったら、神に背いた夫は地獄に落ちてしまうから。自らに降りかかる煉獄の苦しみは受け入れられても、愛するひとがそれを被るのは見ていられないのだ。

 

黙ってろ、家に帰ってろと言われても彼女はそうしなかった。喋ったら殺されるなんてこと、誰よりも彼女が分かっていたはずである。きっと最初で最後であろう夫への背き、つまり、「ぺちゃくちゃとうるさいのなんの」「いつだって喋る」と夫に悪態付かれた彼女の最期の『お喋り』は、誠実さと愛そのものに思えた。

 

そして彼女は静かに死を受け入れる。剣を抜いた夫を真っ直ぐに見つめ、逃げることもせず。自分の裏切りで欠けてしまった夫の男性性を、夫のプライドを、守るために。

 

タイトルはエミーリアの台詞です。ムーアに向けた、デズデモーナの想い。そして、重ねられたエミーリアの想い。

愛していたのよ、残酷なお前を。

エミーリアは、最後までイアーゴーを愛していた。

 どうかエミーリアが幸せでありますように。

 

Iago

 

神山くんが舞台オセローに翼くんの代役で出るいうニュースが舞い込んできたのは5月3日だった。

 

ともぴろちゃんがオセロー?シェイクスピアすんの??イアーゴーを???え?まじで???しかも歌舞伎や宝塚といった、舞台に愛された人たちと名を連ねている。演出はあの蜷川幸雄の助手をしていた人。

 

どの情報を見ても ま、まじか〜!!!!!!しか言えなかった。羅列する文字が全部強い。

 

元々舞台が好きだったり俳優が好きだったりするので、シェイクスピア蜷川幸雄もそれなりに通ってきた。だからイアーゴーという役の凄さは重々承知していたし、しばらくは信じられなくてオタクと取り留めのない電話を何度もした。

 

シェイクスピアは元々表題を「イアーゴー」にするつもりだったらしい。つまりはイアーゴーは主役も同然。神山くんも言っていたけど、数あるシェイクスピア作品の中でもイアーゴーはハムレットの「ハムレット」に次ぐ台詞の多さ。

まさか25歳になる神山くんに、そんな仕事のオファーが来るなんて考えてもみなかった。

シェイクスピアは舞台に立つ人間からするとやはり一種のステータスで、いつか立ってほしいなあと思っていたけれど、これは偏見だが神山くんはシェイクスピアの作品を読んだことはなさそうだし近い未来にそんなことを考えてもなさそうだった。特に興味もないのかなあ、なんて思っていたけど、なんと神山くんは、舞台BLOOD BROTHERSで演出を手掛けたグレンさんに

「あなたは絶対お芝居をやめないでね。頑張っていれば『ハムレット』ができるから」と声を掛けられていたらしい。

当時そんなことを神山くんは話していなかったから当然知る由もなかった。まさかそんな役者冥利に尽きる嬉しいことを言われていたなんて。

三年半越しにそんな話を聞けると思っていなかったから、これは嬉しいおこぼれだった。

 

 舞台オセローの最初の本読み稽古は3月に行われている。この時点ではまだ翼くんで話は進んでいたから、もちろん神山くんは参加していない。

 ここで固められたイメージを尊晶さんと擦り合わせるために5月頃に本読みが行われると、WESTival北海道では「まぁ〜〜〜ムズイ!」と声を高くしていた。

レコメンでは「楽屋では台本を開かへん。稽古場で覚えるって感じかな」と話していたけれど、すぐに「今回はそうはいかない。稽古場でも家でも開いてブツブツブツブツ…」

 藤井流星さんはあまりにも険しい顔をして台本と向き合う神山くんに、「どう?チェス」とツッコミ待ちで声を掛けると「いやオセローな」とマジレスされたらしい。

お仕事の合間にはマネージャーさんや小瀧望さんに「一言一句、少しでも間違えたら指摘して」と読み合わせをしてもらったり、1番驚いたのはいよいよ8月に稽古が始まると「ノイローゼになりそう」「吐きそうになる」「台本開くのが怖い」と弱音を吐いたこと。

ぶ誌でも「苦戦して悩んでもがいている」と漏らしていた。

「だけどその先に目指す結果があるはずだ」と、何を見聞きしても自分で自分を鼓舞してギリギリまで追い詰めている姿が見て取れた。

 

本当になんの見通しも立っていないならそんな弱音は言わない、言えないような人だから、そこまで不安になることはなかったけれど、それでも神山くんがそんな風な本音を漏らすのは長年応援してきて初めてだったように思う。

 

芝翫さんが「神山くんが稽古場で暗くなっちゃったときもあったし、皆で「大変だ、大変だ!」って言っていたんです」と話していたり、

尊晶さんが「僕も初めてだから同じだね」「ギャフンと言わせてやろう!」と神山くんに言葉を掛けたという話を聞いて、立ちはだかる大きな壁に一緒に向かってくれるのがこんなに温かい座組でよかったと心から思った。

 

いざ9月2日 舞台オセローの幕が上がると、そこに居たのは堂々立派たるイアーゴー。

正直者の顔と悪党の顔。優しい顔をしていたかと思えば次にこちらへ向けるのは鋭い眼光。

4時間、ただ息をのむことしかできなかった。

カーテンコールになっても神山くんのあのかわいい笑顔は影に隠れていて、気を張った表情だった初日。

終わった…と思わず声を漏らした神山くんの、その計り知れないプレッシャーがどれほどのものだったかなんて到底分からない。あのやり切ったような、少し情けない顔はたぶん、きっとわたしが神山くんのファンを続ける限り忘れることはないと思う。

その次の日には穏やかな顔をしていて、その次の公演でようやくかわいらしい笑顔が出た。

 だけど千秋楽のカーテンコールで「ああ、神山くんだ」とふと思ったので、やっぱりそれまでは神山くんのようでイアーゴーだったのかもしれない。

 

千秋楽で神山くんは泣かなかった。

ブラブラでは子供のようにわんわん泣いていた。VBBでも、やっぱり子供のようにぐすぐすと泣いていた。

初日はあんなに情けない顔をしていたのに、神山くんはすごい。1ヶ月でびっくりするほど大きくなってしまった。真っ直ぐに前を見て2ヶ月間を振り返るように深くお辞儀をして、挨拶では笑いまで取っていた。

 

神山くんは全身全霊、精神を削るように、命を燃やすようにイアーゴーと生きていた。 

それはもう文字通り、身も心もボロボロにして、だ。

わたしが初日から2日間見てまたその次の週に見たとき、あんなにハリのある声だったのに、と思った。思ったけれど、それでも全然支障をきたしていなかったし相変わらず艶やかな声だった。

最後の挨拶で喋り出したとき本当に驚いた。ガラガラ、ガサガサ、カスカス、全部当てはまる。そんな声でもあんなに出来る。それはもう神山くんの執念だ。なんて恐ろしい人なんだろう。

 

 艶のある声、しゃんとした背筋、神山くんの持って生まれた大きな武器。

どうかずっと板の上に立ち続けてほしい。

後にも先にも、神山くんがこんなに苦悩する作品はないかもしれない。台詞も立ち回りもどこから手をつけたらいいかわからなくて、それこそ本当にノイローゼになってしまう!っていうくらい思い詰めるようなこと、きっとないと思う。

もしぶち当たったとしても、この舞台オセローを乗り越えたという事実が神山くんを支えてくれるんだろう。舞台オセローは神山智洋さんの人生における大きな財産だ。

 

全力で駆け抜ける神山くんを見て、私も全力でこの舞台に向き合わなくちゃと思った。向き合い方は人それぞれだから、私のやり方が正しいというわけではない。

ボロボロになるまで本を読み込んだ。奈良から東京まで、泊まったり日帰りだったり、とにかく新橋演舞場に足を運んで気付いたら3日に1度、結局公演の半分を観劇した。

どれだけ願ったってもう新橋演舞場で舞台オセローは公演されていないし、イアーゴーはいない。

 すごくすごく寂しいけれど、私も多分、やり切った。

 

25歳でシェイクスピアに出逢えたこと、イアーゴーという役をやり遂げたこと、とてもとても誇らしい。私の好きな人はすごい。本当にかっこいい。

でっかい人間に、なってしまうんだろう。

それでもきっと神山くんは「もっと」と言うんだろう。

 今この瞬間、神山くんのファンとしてオセローを共に過ごせたことが嬉しくて仕方がない。

 

神山智洋さん、本当にお疲れ様でした。

どうかふかふかのお布団でたくさん寝て、甘いもの、美味しいもの たくさん食べて、愛犬とおさんぽしたり愛猫とごろごろしたり、たくさんたくさん休んでください。

 

今度はアイドル ジャニーズWEST神山智洋として、キラキラの笑顔を向けてくれるのを楽しみに生きたいと思います。

 

そしてまた、いつか新橋演舞場で。

 

 

 

ちなみにまだやることは残ってる!

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追記

千秋楽を終えた直後に書いたというなにわぶ誌を読みました。

2ヶ月を振り返るとやっぱり最初に出てきた言葉は「しんどい」「いらいらする」「ノイローゼになった」「公演終わりにぶっ倒れた」

こんなにも素直に負の感情を出せるくらい、全38公演を終えた神山くんは達成感に溢れていることがよく分かる。苦しいまま終わらなくてよかった。

 

初日を見終えて、「かみやまくん、この期間にもアイドル業があるのすごく苦しいだろうなあ」と帰り道に思わずつぶやいてしまった。

公演終わり休憩する間も無くMステに駆けつけなければならないというスケジュールもだけど、精神的にすごくしんどいんじゃないか なんて勝手な、神山くんからするとありがた迷惑にも程がある心配をした。ぎょろぎょろと目を光らす悪党から1時間後には、キラキラの笑顔の振りまくアイドルにならなきゃいけないなんて。

 

皮肉なことに、神山くんがそうしてノイローゼに苦しむ傍らでどんどんイアーゴーとしての迫力が増していたのは確かだ。というより、神山くんを蝕んでいたのはノイローゼじゃなくてイアーゴーだったのかもしれない。

 1ヶ月も同じ役をやるとやはり慣れてくる感覚があると思うし、それって案外分かる。だけど今回神山くんからそれは見られなかったんですよね。毎日毎日苦しんでいた。

 神山くんはたぶん最後までイアーゴーと友達になることはなかった。それでいいと思う。かわりに悪魔を住まわせた。相容れない奴との生活は本当にストレスだっただろう。甘いものを食べられなくなるという方向にストレスが出るのは少し笑ってしまった。たくさん食べてね。

 

シェイクスピアにまた出たいという神山くんの夢が叶いますように。

 

ありがとう!イアーゴー!

舞台オセローの話

 

 

 9月2日に幕が開いた舞台オセロー。

あっという間に時間が経ち、ついには残すは千秋楽のみとなってしまっていることに気づいた。

 

 

公演中に考えをまとめて書きたかったのにやべえ!時間がない!と慌てて書いているので推敲も特にせずとってだしの無茶苦茶な文章です。

 

※いちオタクの考察(にすらならないが)なので、違うだろ!という怒りの批判は受け付けておりません!メンタルが豆腐なので!どうか優しいお言葉をください!

 

 

 

 

 

 愛と悲劇

シェイクスピアの四大悲劇で知られる「オセロー」、一体、この物語は誰の悲劇なのだろう。

 

なんの罪もない愛する人を殺めてしまうオセローか、無実の罪を疑われ殺されてしまうデズデモーナか、はたまた、敬愛する人不本意に陥れてしまったうえ、旦那に刺されるエミーリアなのか。

 全員がそれぞれ悲劇を負っている。

信じていた友人に騙され始末されるロダリーゴーも、疑念をかけられ暗殺を仕掛けられるキャシオーも。

 

しかし、悲劇の主役であるオセローとデズデモーナの結末は、愛故に生きた夫婦の、愛故の死だ。

オセローは言う

「死は喜びだ」と。

メンヘラのようなことを言うが、2人の悲しい結末は完成された愛なのである。(ここにたどり着くまでの話は長くなるので割愛したい)

 

 悲劇の根幹はすべて 正直者のイアーゴーのもとに成り立つ。

しかし本当の悲劇は、イアーゴーにあるのではないだろうか。

 

イアーゴーは、エミーリアのことも、オセローのことも愛していた。

 

イアーゴーはエミーリアのことを殺すつもりなど無かった。

イアーゴーのような男なら、ハンカチを手にした瞬間から危険人物となるエミーリアのことを早々に殺してしまうことだって考えただろう。

 

しかしそうしなかったのは、エミーリアは自分を窮地に立たせるようなことはしないという過信があったからなのかもしれない。プライドの高いイアーゴーは妻が自分を嘲るという可能性を見て見ぬフリをしたのかもしれないし、単純に、エミーリアのことを愛していたからなのかもしれない。
後者であればいいなと思う。

 

殺したくないのに刺してしまった。でも殺さなければならなかった。

イアーゴーは、それはまるでラブシーンかのように、だけど確実に、エミーリアを強く強く抱き締めて刺すのだ。

悲しいなあ、だいすきなのに。

 

 

そしてもう一つの死、オセローの自決を目にしたイアーゴーの顔。それは「信じられない」とでも言うような、ただただ呆然とした表情だった。

 

ツイートでイアーゴーの同性愛説について少し話したが、今回の舞台でそれを感じたのは1幕の終わり 地球儀のシーンにある。

 

地球儀を操るあのシーンは、チャップリンの独裁者のオマージュだ。これから全てを思いのままに動かす、これから世界を手玉に取ろうとするイアーゴーの姿をそのまま譬喩したもの。

 

地球儀に歩み寄り、怪しげな顔で舐め回すように一瞥したあと、イアーゴーは南アフリカをそれはそれはとても優しい顔で見つめる。

初日観たときはそっと撫でていたし、次に観たときは抱き寄せ、その次に観たときは頬を寄せキスをしていたようにも見えた。

 

南アフリカは、オセローの故郷だ。

イアーゴーが言うように「憎くてたまらない」相手の故郷を普通はそんな顔で見たりはしない。
イアーゴーは、オセローが憎くてたまらないのと同時に、愛しているのだ。

 

オセローは、悲しい愛憎劇である。

 

余談だが、地球儀のシーンで後ろに掲げられている絵画。あれは聖セバスティアヌスだ。聖セバスティアヌスは兵士の守護聖人であり、その矢を射られた姿に、後に同性愛者のシンボルとして信仰を集めている。

 

 

 今回わたしはそれを、セバスチャン=イアーゴーとして受け取った。

 

同性愛といっても、今回のイアーゴーにおける「同性愛」は偏に性欲とかそういったものではなく、上司として、男として、イアーゴーはオセローのことを愛していたのだと思う。将軍として確かな才能を持つオセローへの憧れ。

突然情緒のない言い方をするが、イアーゴーはいわばオセローのオタクのようなものだったのかもしれない。

 

そんなオセローの裏切り。今まで1つ足りとも軍を采配したこともないようなキャシオーを副官に選んだオセローへの疑心。

聞けばオセローとデズデモーナの仲を取り持ったのはキャシオーだという。なんて浅はかな。

立派な人だと慕っていたのに、軍人としてのプライドはないのかと憤りを感じたのかもしれない。

 

 聖バスティアヌスはイアーゴーであると仮定すると、もう一つ重なる部分がある。

聖セバスティアヌスは、たくさんの矢を射かけられて死に絶えたかと思われたが、実際ははすべて急所をそれたために致命傷とはならずに生き延びたと言われている。

 

あの衝撃のラストシーンでどちらとも取れてしまうイアーゴーの最後。あのセバスチャンを思い出し、ああ、イアーゴーは生き延びてしまうのだと思った。

 

あまりにも悲しい話だ。

 愛する人も敬愛する人も友人も、副官という目標までも、全てを無くしたイアーゴーに残るのは絶望と虚無。
絶望の淵に取り残されるイアーゴーこそが、本当の悲劇の始まりなのだ。

 

 

 緑色の目をした怪物とイアーゴー

イアーゴーは「俺もデズデモーナに惚れている」と言う。

 

こうなるともはやイアーゴーの惚れた腫れたは分からなくなってくるが、当初のイアーゴーにはデズデモーナのことを殺すつもりはなかったように思う。

 

彼は「友人は殺します。しかし奥様は生かして…!」と言い淀む。

イアーゴーの手法として、反対のことをわざと言って相手にそれを誘発するというものがある。今回もそれかと思ったが、イアーゴーはオセローが背を向けてからも、取り繕う必要のないはずの顔をやり切れないといったように歪めるのだ。

 

この時点でのイアーゴーは緑色の目をした怪物ではなく、純粋無垢な少女を殺すなどという酷い策略は立てていなかったように思える。

 だが、「ベッドで首を絞めなさい」と助言したのも間違いなくイアーゴーだった。

 

この間に、何があったのか。

 

そもそもイアーゴーの本来の目標は、副官の座を奪うことである。

 

『これからはお前が俺の副官だ』
『永久に お仕えします』

 

イアーゴーの夢は叶ったかのように思えた。

本来の目的は果たしたのだ。それで終わりでいいじゃないか。そうすることも出来たはずなのだ。

 

しかし、信じていた妻と部下に裏切られたオセローにとって、唯一頼れる、信じられる者は自分しかいないというその快感。優越感。

オセローにはイアーゴーしかいないのだ。

 その地位を、永遠に。

 

緑色の目をした怪物がイアーゴーを飲み込んだ瞬間だ。

 

蝕まれていくイアーゴーを更に加速させたのは、キャシオーを総督に任命する、というヴェニスからの手紙。

(じっとなんかしていられないというように、そこからのイアーゴーはハケる時走るようになったり、猫背になり、ときには肩でぜえぜえと息をするようになる。)

 

もうイアーゴーは止められない。全てを自分の思い通りにことを進めたくて仕方がない。

番狂わせをする目障りなものはいらない。

 

歪んだイアーゴーの計画は折り重なる死の悲劇を招くこととなる。

 

 

鏡の間

 3幕から舞台に大きな鏡が現れる。それはイアーゴーを除いた誰からも触れられることなくただ存在する。イアーゴーだけが、鏡に映る自分の姿を見て叫ぶのだ。

 

「泣かないで」
泣き喚くデズデモーナを宥めるイアーゴー。

「万事総て上手くいきますよ」と、これでもかというほどに優しく声をかける。

 

怪物は、自分に縋るデズデモーナの姿にどれだけ悪どい顔をするのだろうと目を見張ったが、イアーゴーは身を固まらせていた。そこにあるのは戸惑いだった。

デズデモーナの背中に回った手は、抱き締めることも、突き放すこともせず静かに空を握る。

 

この瞬間は、「正直者のイアーゴー」だったのだ。しかし鏡に映ったのは、自分の皮を被った悍ましい怪物。その存在に気付いたイアーゴーは尻もちをつき、後ずさり、そして慄き叫ぶ。一度取り憑いた怪物はもうどうすることもできない。

 

鏡に気が付くのはイアーゴーだけではなかった。他でもない、我々観客である。我々は他でもなく、イアーゴーが見る世界を見ているのだ。

 

1人なのに舞台上には2人。右の横顔も左の横顔も、客席には顔を向けているのに同時に背中が見える。どれが誰で、どれが偽物で本物なのか、ごちゃ混ぜになる。

騙したり、騙されたり、寝返ったり、裏返しになったり。視界がグラグラして気持ち悪い。それが良かった。

 

 

 

 

最後の付け加えられた演出についてはまだ確認したいことがあるため結局書ききれませんが、あれは現実なのか、イアーゴーの妄想なのか、どういった意図なのか演出家視点からも、イアーゴー視点からも聞いてみたい。

 

 相変わらずブログの締め方がわからないのでぬるっとこのブログは終わりたいと思います。

千秋楽が終わったら、イアーゴーを演じたかみやまくんについて書きたいなあ

 

 

辰星



宇宙を駆けるよだか、早いもので配信からもう2週間経ちました。移動時間とか暇さえあれば繰り返し繰り返し見てるんだけど、しんどい。何回見てもしんどい。
とりあえず消化できてる現状分での感想です。1週間後には言ってることが違うかもしれない。


その前に………なにかの拍子でこのブログを開いてしまい、宇宙を駆けるよだかとはなんぞや?となっている方へ、まずはこちらをご覧ください。
ドラマ「宇宙を駆けるよだか」公式サイト




※この先ネタバレめちゃめちゃしていくので自己防衛で!






まず偏に、すごく苦しい話だった。

然子の「綺麗な顔は何を言っても正義になる」というセリフ。

本当に然子だけが悪いのか。
私には到底そうは思えなくて、すごく苦しかった。


あゆみが火賀に、
もし自分が元から然子の容姿だったとしても自分のことを好きになってくれたか
と問い、火賀が「それなら誰よりも先にあゆみの良さに気づけていたかもな」と返すシーン。

沈んだあゆみの心を救う、最大級にかっこよく、火賀の真っ直ぐさが痛いほど伝わるシーンです。
あゆみから見ても視聴者サイドで見ても全信頼をおける火賀。
あつすぎて、まっすぐすぎて、まぶしすぎて、ちょっとむかつくこのセリフを然子は最後に否定します。


「元が可愛いからそんなことが言える」と。

もともと原作にはこのセリフないんですよね。だけどすごく大事で、これがあるから火賀のセリフがより際立った。


原作と違うところは他にもあって、それがよだかの世界観をより濃くしていたように思います。
たとえば火賀の最後のセリフ。

「お前は俺のことがすきだ、だけどそれは情だろ?」

「友達としてやろ?」
になったり、

「俺の力じゃ元には戻してやれなかった」が
「お前戻すために1番苦しんだんあいつやろ」になったりしてます。

所詮想像だけど、重岡くんが
台本の言い回しをちょくちょく変えてしまった、けどそれが採用されとるところもある、
と話していて、なんとなく、なんとなくだけどここがそうかなあと思った。

火賀として生きた重岡くんが、情でなく「友達」という言葉を選んでいたらいいなあと思うし、もしそうだったらすごく暖かい現場だったんだろうなあ。

特に後者、 このセリフで火賀は最後まで火賀であり続けたと思うんですよね。
何がと言われると上手く言葉にはできないけれど。
聞こえが悪いかもしれないけど漫画のセリフはちょっとエゴっぽい。自分は後回しでも、あゆみの想いを汲んだり大好きな2人の幸せを願ってしまう、焦れったい姿がもどかしい。火賀はずるい人間になれないタイプだよなあ。

他にも、元に戻った然子を然子(あゆみ)と重ねて涙してしまう火賀の姿も原作にはなくて。

然子の姿をみて、あゆみとの思い出が駆け巡ってしまうの、火賀がほんとに然子の姿にだって恋をしていたということが描写されていてすごくよかったです。

原作だと、ずっと自己犠牲してきたしろちゃんがあゆみの「しろちゃんが好きです」の言葉で張り詰めていた糸が切れたように泣いちゃうの。「おかえりあゆみちゃん」と抱きしめるシーンがすごく大好きで楽しみにしていたんだけどまさかの全カットで絶許案件



「見た目か中身か、他人に愛されるのはどちらか」というこのテーマの裏は、
「自分が自分を認められる環境を自分の取り巻く世界で作れるか」
という話だと思います。
良くも悪くも結局全て変えられるのは自分。
幸せへの近道は、自分を愛すこと。

だけど然子はそれすら許されなかった。そういう世界を周りが作ったから。

自分を好きになるって難しい。
火賀にもしろちゃんにも、例え然子の姿になったあゆみにさえも、ほんとのところで然子の気持ちを理解することなんて出来ないんですよね。

小さい時からブスだと罵られ、ブスだというだけで人権がないように扱われ、自分の外見がコンプレックスになった。
そうした十数年間を送ってきた然子の歪みなんて、顔が綺麗な人たちに分かるはずがない。


また、しろちゃんも火賀に対してコンプレックスを抱いていました。勉強もスポーツも成績はいつだって一番で、だけどいつだってクラスの中心は火賀。

いいなあ火賀は、愛されて。

いいなあ火賀は、誰かに頼られて。

然子に近づくために吐いた言葉で、どこまでがしろちゃんの本音でどこからが嘘か分からないけど、確実にしろちゃんの中にも嫉妬はありました。
もしかすると然子のように歪んでしまう可能性だってあったかもしれない。
だけどそうならなかったのは、「水本公史郎」を好いて認めてくれる2人がずっとそばに居たからで、そんな環境が然子にはなかったんだよなあ。

話は逸れてしまうけど、やっぱりしろちゃんは火賀のことだいすきなんですよね。

しろちゃんの、火賀のようにあゆみと然子が入れ替わっていることに気づく瞬間って描かれていない。
確信するシーンはあったけど。

わたしの想像だけど、火賀の存在が大きかったんじゃないかな、と思います。
突如あゆみに絡む上、「入れ替わってるの!わたしがあゆみだよ!」「告白してくれたよね?」と迫ってくる然子に不信感を抱くしろちゃんは、当たり前のごとく「海根さんと距離を置きたい」と火賀に助けを求めます。

火賀はそんな事情を知ってるにも関わらず、あゆみ(然子)を差し置き然子(あゆみ)を庇い、しかも一緒に楽しそうに笑い合ってる。
誰だって「あれ?」って思うはずです。
だってお前、あゆみちゃんのこと好きなんじゃないの?って。

いつだって真っ直ぐな火賀が、同じようにあゆみを大事に思ってるはずの火賀が、あゆみじゃなくて然子といる。なんで?

さっきまで全然信用していなかった「わたし小日向あゆみなの」という然子の言葉を思い出し、まさか、と思ったんじゃないでしょうか。だから暗闇であゆみを試した。
自分の知るあゆみちゃんかどうかを確かめるために。

「あいつになりたい」と思うしろちゃんの描写は火賀への妬み嫉みが中心だったけど、しろちゃんは火賀のことだって大好きで。
「あゆみちゃんと火賀のことは、俺が一番分かってる」から。
あゆみを想う気持ちが同じだから、あゆみへの態度が変わった火賀がいたから、あゆみと然子のことに気づいたんじゃないかなあ。
それって火賀への圧倒的信頼だよね。と思ってちょっと泣いた。
対局の2人だけど一生仲良しでいてほしい。

話は戻るけどもしもっと早く、物心がついたころから火賀のように、しろちゃんのように、あゆみのように、然子に接してくれる人がいたら然子の人生は違うかったかもしれない。

自分を好きになるって本当に難しい。
誰もが他人に対して「いいなあ」「うらやましい」の感情を持ったことがあると思うんですよね。誰もが然子やしろちゃんの気持ちに寄り添えるんじゃないかな。


自分を見てくれる家族も友達も居なかった然子の悲しい苦しい叫びが、なりたい外見になって全て手に入れたと思った矢先に届くのが皮肉だった。
ほんとに届けたかった時にはこれっぽっちも届かなかったのに。
たしかにあったはずの幸せの先に待っているのは否定だった。
それってすごく悲しいよなあ。


だけど漫画にはない然子と母親の修復に向かうような描写、
火賀に押されて飛び込んだ教室には「おはよう!」「パンケーキ行かない?」と声を掛けてくれるクラスメイト(然子が作ったものではなくあゆみが残したものなのでわたしはこれすら皮肉だと思ってしまったけど)、
妬み憎んだあゆみや火賀、そして大好きな憧れのしろちゃんとの4人で仲良く歩く姿。


3人がいれば、然子も少しは自分を認めてあげられるようになるかなあ。

然子が幸せになれるといいなあ。






そしてここからは水本公史郎を演じた神山くんの話。

まず宇宙を駆けるよだかの作者、川端さんのツイートから。




もしこれが重岡くんじゃなく他の俳優とのタッグなら、「火賀俊平 」のイメージを合わせにいくだけだったんだろうな。

ともぴろちゃんは見事に【「重岡大毅」の「火賀俊平」】を演じきっていました。

5話からの神山智洋さんは水本公史郎でなく火賀俊平だった。表情も、声も、話し方も、仕草も、そこにいたのは火賀俊平という男の子だった。

わたしがそれを強く実感したのは5話の飛びついてくるあゆみに「泣くなよ」というセリフ。すごい、ほんとに入れ替わってた。
少しおどけた風に言うのがすごく火賀だった。

女優陣の清原さん富田さんも入れ替わりをスムーズにしたいために綿密に細かく打ち合わせして、イメージを一致させていったと話していたけれど、かみしげはきっと互いの雰囲気を感じて「しげなら」「神ちゃんなら」の意識が働いてるんだろうなと思います。
しろちゃんと火賀を通したかみしげのお芝居。
2人の絆、信頼、長い歴史を見せつけるドラマだった。

水本公史郎が火賀俊平になったように、神山智洋はあの瞬間重岡大毅になっていたんだなあ。
よだか後の2人がめちゃめちゃいちゃこらしていたのが頷ける。


そしてやっぱりともぴろちゃんは静の演技がすごすうまい。(対して重岡くんは動がうまいね。)

前半のしろちゃんの言葉とか表情、感情的にするのはすごく簡単で普遍的なものだけど、抑揚のない落ち着いた、感情の読み取れないお芝居って難しい。同情も憤怒も嘲笑もせずただ淡々と、この人何考えてるの?って思わせるお芝居。
一定のトーンで喋ってるのにセリフはとても聞き取りやすいし、才能だなあ。

神山くんは板の上向きのお芝居だと思っていたんだけど、できるじゃん!ドラマ!(誰目線ですか?)

ほんとにまだまだ可能性を秘めてる人だなあ。やばい。この人どこまでいくんだろう。

著名人を含め、よだかを見たという人たちのツイート、重岡くん(というか火賀)への批評が多くて、やっぱりか〜〜!と思った。だけど別に悔しく思う必要もないのかなあ、と。
火賀がめちゃめちゃにいいやつでまじで大方の恋心を掻っ攫っていくような役だったので、圧倒的人気だしそりゃもれなく中の人を好きになる。ドラマってそういうもん。

そんなもんだよな〜〜!って歯がゆく思わないくらい、わたしは神山くんのお芝居に満足したし、次の仕事に繋がる確信を持ててしまった。
役への評価と役者への評価は全くの別物で、神山智洋を役者として評価をしてくれる人は絶対にいる。

ともぴろちゃんはグループ内のポジション的に先陣切って売れていかなきゃならない人でもないし(語弊があると困るので弁解しますが売れないとは断じて言ってないよ!)、ただ目の前の仕事をコツコツ大事にしてほしいなあ。
先日の雑誌で神山くん自身もそう述べていたので は〜〜圧倒的信頼!しゅき!

ただMVに関してはJEに殴り込み待った無しレベルなんだが





さてここからがこのブログの最重要項です。

我々オタクができることは宇宙を駆けるよだかDVD&Blu-ray化の熱望、しいては地上波放送の要望のみ!

球技が苦手なともぴろちゃんがツアー中も練習に励んだバスケシーンの裏側、気持ちが入りすぎて鉄筋を全力で殴り「アイター!」と叫ぶともぴろちゃん、休憩中に金八をやってる姿もかみしげでにゃんにゃんしてるところも、もしかしたらもしかしたらメイキングに残るかもしれない!
わたしは!みたい!メイキングが!!!!
いやこの際メイキングはなくてもいい!
視聴という点では好きなときに好きなところで観れるNetflixはめちゃめちゃ便利ですが、なんせわたしはオタクなので形にしたい。
分かりやすい形になった宇宙を駆けるよだかを何年も大事にしたい。

ということで

〒150-8550
ジャニーズファミリークラブ
ジャニーズWEST意見・要望係』

によだかへの熱〜〜〜い想いを!

あとわたしはNetflixに大貧乏のリクエスト送り続けます。こぐちゃんげんき?

Netflixというコンテンツにまた呼んでもらえるといいな〜〜〜
ていうかよだかの動画とか載せてるツイッタラーはしんでくれ〜〜〜〜〜〜〜〜