舞台オセローの話

 

 

 9月2日に幕が開いた舞台オセロー。

あっという間に時間が経ち、ついには残すは千秋楽のみとなってしまっていることに気づいた。

 

 

公演中に考えをまとめて書きたかったのにやべえ!時間がない!と慌てて書いているので推敲も特にせずとってだしの無茶苦茶な文章です。

 

※いちオタクの考察(にすらならないが)なので、違うだろ!という怒りの批判は受け付けておりません!メンタルが豆腐なので!どうか優しいお言葉をください!

 

 

 

 

 

 愛と悲劇

シェイクスピアの四大悲劇で知られる「オセロー」、一体、この物語は誰の悲劇なのだろう。

 

なんの罪もない愛する人を殺めてしまうオセローか、無実の罪を疑われ殺されてしまうデズデモーナか、はたまた、敬愛する人不本意に陥れてしまったうえ、旦那に刺されるエミーリアなのか。

 全員がそれぞれ悲劇を負っている。

信じていた友人に騙され始末されるロダリーゴーも、疑念をかけられ暗殺を仕掛けられるキャシオーも。

 

しかし、悲劇の主役であるオセローとデズデモーナの結末は、愛故に生きた夫婦の、愛故の死だ。

オセローは言う

「死は喜びだ」と。

メンヘラのようなことを言うが、2人の悲しい結末は完成された愛なのである。(ここにたどり着くまでの話は長くなるので割愛したい)

 

 悲劇の根幹はすべて 正直者のイアーゴーのもとに成り立つ。

しかし本当の悲劇は、イアーゴーにあるのではないだろうか。

 

イアーゴーは、エミーリアのことも、オセローのことも愛していた。

 

イアーゴーはエミーリアのことを殺すつもりなど無かった。

イアーゴーのような男なら、ハンカチを手にした瞬間から危険人物となるエミーリアのことを早々に殺してしまうことだって考えただろう。

 

しかしそうしなかったのは、エミーリアは自分を窮地に立たせるようなことはしないという過信があったからなのかもしれない。プライドの高いイアーゴーは妻が自分を嘲るという可能性を見て見ぬフリをしたのかもしれないし、単純に、エミーリアのことを愛していたからなのかもしれない。
後者であればいいなと思う。

 

殺したくないのに刺してしまった。でも殺さなければならなかった。

イアーゴーは、それはまるでラブシーンかのように、だけど確実に、エミーリアを強く強く抱き締めて刺すのだ。

悲しいなあ、だいすきなのに。

 

 

そしてもう一つの死、オセローの自決を目にしたイアーゴーの顔。それは「信じられない」とでも言うような、ただただ呆然とした表情だった。

 

ツイートでイアーゴーの同性愛説について少し話したが、今回の舞台でそれを感じたのは1幕の終わり 地球儀のシーンにある。

 

地球儀を操るあのシーンは、チャップリンの独裁者のオマージュだ。これから全てを思いのままに動かす、これから世界を手玉に取ろうとするイアーゴーの姿をそのまま譬喩したもの。

 

地球儀に歩み寄り、怪しげな顔で舐め回すように一瞥したあと、イアーゴーは南アフリカをそれはそれはとても優しい顔で見つめる。

初日観たときはそっと撫でていたし、次に観たときは抱き寄せ、その次に観たときは頬を寄せキスをしていたようにも見えた。

 

南アフリカは、オセローの故郷だ。

イアーゴーが言うように「憎くてたまらない」相手の故郷を普通はそんな顔で見たりはしない。
イアーゴーは、オセローが憎くてたまらないのと同時に、愛しているのだ。

 

オセローは、悲しい愛憎劇である。

 

余談だが、地球儀のシーンで後ろに掲げられている絵画。あれは聖セバスティアヌスだ。聖セバスティアヌスは兵士の守護聖人であり、その矢を射られた姿に、後に同性愛者のシンボルとして信仰を集めている。

 

 

 今回わたしはそれを、セバスチャン=イアーゴーとして受け取った。

 

同性愛といっても、今回のイアーゴーにおける「同性愛」は偏に性欲とかそういったものではなく、上司として、男として、イアーゴーはオセローのことを愛していたのだと思う。将軍として確かな才能を持つオセローへの憧れ。

突然情緒のない言い方をするが、イアーゴーはいわばオセローのオタクのようなものだったのかもしれない。

 

そんなオセローの裏切り。今まで1つ足りとも軍を采配したこともないようなキャシオーを副官に選んだオセローへの疑心。

聞けばオセローとデズデモーナの仲を取り持ったのはキャシオーだという。なんて浅はかな。

立派な人だと慕っていたのに、軍人としてのプライドはないのかと憤りを感じたのかもしれない。

 

 聖バスティアヌスはイアーゴーであると仮定すると、もう一つ重なる部分がある。

聖セバスティアヌスは、たくさんの矢を射かけられて死に絶えたかと思われたが、実際ははすべて急所をそれたために致命傷とはならずに生き延びたと言われている。

 

あの衝撃のラストシーンでどちらとも取れてしまうイアーゴーの最後。あのセバスチャンを思い出し、ああ、イアーゴーは生き延びてしまうのだと思った。

 

あまりにも悲しい話だ。

 愛する人も敬愛する人も友人も、副官という目標までも、全てを無くしたイアーゴーに残るのは絶望と虚無。
絶望の淵に取り残されるイアーゴーこそが、本当の悲劇の始まりなのだ。

 

 

 緑色の目をした怪物とイアーゴー

イアーゴーは「俺もデズデモーナに惚れている」と言う。

 

こうなるともはやイアーゴーの惚れた腫れたは分からなくなってくるが、当初のイアーゴーにはデズデモーナのことを殺すつもりはなかったように思う。

 

彼は「友人は殺します。しかし奥様は生かして…!」と言い淀む。

イアーゴーの手法として、反対のことをわざと言って相手にそれを誘発するというものがある。今回もそれかと思ったが、イアーゴーはオセローが背を向けてからも、取り繕う必要のないはずの顔をやり切れないといったように歪めるのだ。

 

この時点でのイアーゴーは緑色の目をした怪物ではなく、純粋無垢な少女を殺すなどという酷い策略は立てていなかったように思える。

 だが、「ベッドで首を絞めなさい」と助言したのも間違いなくイアーゴーだった。

 

この間に、何があったのか。

 

そもそもイアーゴーの本来の目標は、副官の座を奪うことである。

 

『これからはお前が俺の副官だ』
『永久に お仕えします』

 

イアーゴーの夢は叶ったかのように思えた。

本来の目的は果たしたのだ。それで終わりでいいじゃないか。そうすることも出来たはずなのだ。

 

しかし、信じていた妻と部下に裏切られたオセローにとって、唯一頼れる、信じられる者は自分しかいないというその快感。優越感。

オセローにはイアーゴーしかいないのだ。

 その地位を、永遠に。

 

緑色の目をした怪物がイアーゴーを飲み込んだ瞬間だ。

 

蝕まれていくイアーゴーを更に加速させたのは、キャシオーを総督に任命する、というヴェニスからの手紙。

(じっとなんかしていられないというように、そこからのイアーゴーはハケる時走るようになったり、猫背になり、ときには肩でぜえぜえと息をするようになる。)

 

もうイアーゴーは止められない。全てを自分の思い通りにことを進めたくて仕方がない。

番狂わせをする目障りなものはいらない。

 

歪んだイアーゴーの計画は折り重なる死の悲劇を招くこととなる。

 

 

鏡の間

 3幕から舞台に大きな鏡が現れる。それはイアーゴーを除いた誰からも触れられることなくただ存在する。イアーゴーだけが、鏡に映る自分の姿を見て叫ぶのだ。

 

「泣かないで」
泣き喚くデズデモーナを宥めるイアーゴー。

「万事総て上手くいきますよ」と、これでもかというほどに優しく声をかける。

 

怪物は、自分に縋るデズデモーナの姿にどれだけ悪どい顔をするのだろうと目を見張ったが、イアーゴーは身を固まらせていた。そこにあるのは戸惑いだった。

デズデモーナの背中に回った手は、抱き締めることも、突き放すこともせず静かに空を握る。

 

この瞬間は、「正直者のイアーゴー」だったのだ。しかし鏡に映ったのは、自分の皮を被った悍ましい怪物。その存在に気付いたイアーゴーは尻もちをつき、後ずさり、そして慄き叫ぶ。一度取り憑いた怪物はもうどうすることもできない。

 

鏡に気が付くのはイアーゴーだけではなかった。他でもない、我々観客である。我々は他でもなく、イアーゴーが見る世界を見ているのだ。

 

1人なのに舞台上には2人。右の横顔も左の横顔も、客席には顔を向けているのに同時に背中が見える。どれが誰で、どれが偽物で本物なのか、ごちゃ混ぜになる。

騙したり、騙されたり、寝返ったり、裏返しになったり。視界がグラグラして気持ち悪い。それが良かった。

 

 

 

 

最後の付け加えられた演出についてはまだ確認したいことがあるため結局書ききれませんが、あれは現実なのか、イアーゴーの妄想なのか、どういった意図なのか演出家視点からも、イアーゴー視点からも聞いてみたい。

 

 相変わらずブログの締め方がわからないのでぬるっとこのブログは終わりたいと思います。

千秋楽が終わったら、イアーゴーを演じたかみやまくんについて書きたいなあ